手洗舎建立由来

当許麻神社境内に「久宝寺観音院」があり宮寺として、「真言宗大悲閣」と呼ばれ、鐘旧記によれば聖徳太子により建立された物で、本尊として太子自作の十一面観音が楼 安置され、推古天皇2年3月(594年)勅願所となり、仏法の中心であったが、松永弾正の兵火のかかり悉く灰燼に化し、本尊十一面観音のみ伊賀の国(現三重県)に難を避けられました、その後、現久宝寺地内の「念仏寺」に安置されております。

鐘楼は、現在当許麻神社に移築され、「手水舎」として残っております。

◇ 当時、鐘楼にかかっていた鐘は有名で、その響きは遠く数十里に及び、大和(奈良県)の釣高田まで達したと云われいましたが、明治の廃仏毀釈の際にその所在が不明になり、鐘探査の結果、明治37,338年の日露戦役に第六師団(熊本)所属の兵、清水重吉なる人が、捕虜となり、モスクワに送られ、その地のニコライ寺院に「澁川郡久宝寺村」の銘が刻された大鐘のあるのを見たと、その旨の通知があり所在が判明しました。